第1章:海外駐在、最初の90日で成果が決まる
海外駐在の辞令を受けた瞬間から、時計の針は急速に動き出します。赴任直後の過ごし方は、その後数年間の成果を大きく左右します。私がタイにある地域統括会社の技術部に赴任し、ゼロから材料技術チームを立ち上げたときも、最初の90日が成否の分岐点でした。
私の役割は多岐にわたりました。
- ヒトの面では、ローカルエンジニアの採用と育成を担い、将来的には駐在員を減らし、現地主体で業務を回す体制をつくること。
- モノの面では、評価設備や分析装置の導入を主導し、現地で製品や材料の評価・分析を完結できる環境を整えること。
- 業務の面では、新製品開発機能がない中で、現地生産製品の原価低減と品質改善を推進すること。そのために、調達部門と連携して現地仕入先を開拓し、工場品質部門と協力して品質問題の解決に取り組みました。
これらを限られた人員と時間の中で同時に進めるには、赴任直後の「最初の90日」が極めて重要でした。なぜなら、この期間で信頼と方向性の基盤がほぼ固まってしまうからです。
1. 信頼形成がすべての出発点
新設された技術部門は、現場から見れば「何ができるのか未知数」。だからこそ初期は、現場に足繁く通い、顔と名前を覚えてもらい、現場の実情を肌で理解することから始めました。机上の指示ではなく、課題解決に自ら汗をかく姿勢が、ローカルエンジニアや他部門のローカルスタッフの信頼を得る近道です。この信頼が、その後の協力体制の礎となります。
2. 優先課題の特定とリソース集中
信頼の芽が出始めたら、次は「どこに戦力を集中させるか」を明確にします。現地経営層が最も重視する課題を早期に見極め、限られたリソースをそこに投入する。駐在初期は、ローカルエンジニアの採用がまだ完了していなかったり、採用直後で即戦力化していない場合が多いので、自ら現場に入り込む覚悟が必要です。
同時に、採用・育成を並行して進め、優先課題の現場にローカルエンジニアを巻き込みながらOJTでスキルを高める。さらに、他部門のローカルスタッフとも課題解決を通じて関係性を築き、組織横断的な連携基盤を整えていきます。
3. 生活基盤の整備は仕事のパフォーマンスに直結
意外に見落とされがちなのが、生活基盤の確立です。住居探しや水道・電気・インターネットの契約、家族帯同の場合は子どもの学校手続きや生活環境の整備も加わります。これらを後回しにすると、日々の仕事に集中できず、パフォーマンスが低下しかねません。赴任直後は、仕事と生活基盤の整備を並行して進める計画性が求められます。
もしあなたが異国の地で新たなミッションを託されたら、最初の90日間で何を選び、何を捨てますか。その選択が数年後の成果を決定づけるとしたら。私の経験が、その第一歩を踏み出すためのヒントになれば幸いです。
第2章:着任前の準備と心構え
海外駐在は、現地に足を踏み入れた瞬間から始まるのではありません。実際には、辞令を受けた日からすでに始まっています。赴任先での立ち上げを円滑に進めるためには、本社と現地の双方から可能な限り情報を収集し、着任前に整理しておくことが不可欠です。
私が実践してきたのは、次の3つの情報軸を事前に押さえることでした。
- 本社の期待と目標:数値目標、方針、重点施策。
- 現地の現状と課題:リソース状況、文化的背景、現地スタッフのスキルや体制。
- 過去事例からの学び:同様の駐在ミッションにおける成功・失敗要因。
これらを理解しておくことで、着任後の行動指針がブレにくくなります。
初期目標設定の3原則
着任直後は、時間もリソースも限られます。そこで私が意識しているのが、次の3原則です。
- 「本社の期待」と「現地の現実」の両方を見る
本社の方針や数値目標を尊重しつつ、現地の文化や制約も踏まえることで、現実的かつ実行可能な計画に落とし込む。 - 短期成果と長期基盤のバランス
早期に目に見える成果を出して信頼を得る一方で、その成果が一過性に終わらないよう、長期的な基盤整備にも同時に着手する。 - 重要度 × 実現可能性で優先順位を決める
成果につながりやすく、なおかつリソース的に実現可能な課題から着手する。
完璧を狙わず、スピードと適度な完成度を優先
赴任初期に100点満点を狙うのは、かえって行動を遅らせる恐れがあります。私の場合、まずは60点くらいの結果を早く出すことで、現地での信頼構築に繋がったと感じています。信頼が得られれば、残り40点の改善や追加施策は協力を得ながら進めやすくなります。
このように、着任前の準備は単なる情報収集ではなく、着任後90日間の行動シナリオを描く作業でもあります。次章では、このシナリオを実行に移す際の「最初の現場アプローチ」について、具体的にお伝えします。
第3章:現地到着直後の行動パターン
着任後の最初の1か月は、その後の成果を大きく左右する極めて重要な期間です。私はこの4週間を、「関係構築」と「現状把握」という二つの段階に分けて進めることを基本方針としました。
【第1週】信頼の土台づくり
着任直後は、何よりも人間関係の基盤形成を優先しました。
まずは、本社役員級の統括会社社長、生産工場の工場長、他部門の幹部駐在員など、キーパーソンとの面談を短期間で集中的に実施し、彼らの視点・期待・課題認識を直接聞き取りました。
また、会議や公式の場にとどまらず、ランチや休憩時間などの非公式な場も積極的に活用し、率直な意見や現場感覚を引き出しました。
こうした初期の対話は、単なる挨拶以上の意味を持ちます。早期に信頼関係を築くことが、その後の情報収集や協力体制の形成を大幅に加速させました。
【第2〜4週】現場の実態把握
2週目以降は、生産現場に入り込み、工程を自分の目で確認する現状把握フェーズに移ります。
- 製造工程、品質検査工程、ヤード・倉庫、物流動線など、生産全体の流れを俯瞰する。
- 現場リーダーや担当者から、数字や報告書には表れにくい課題や問題認識を直接聞く。
この段階で重視したのは、現場の人たちが何に誇りを持ち、何に不満を感じているのかをつかむことでした。これは、新設した材料技術チームの役割検討に際して重要な情報となります。
数字よりも行動、形式よりも空気感
観察においては、表面的なKPIや資料だけに頼らない姿勢が必要です。例えば、
- 設備トラブルの背後にある運用面の課題
- 細かな品質問題や現場での困りごと
- 暗黙のルールや文化的習慣
こうした「隠れた要因」は、日々の行動や職場の空気感に潜んでおり、数字からは読み取れません。人の動きや場の雰囲気に目を向けることで、組織の真の姿を把握できると考えます。
こうして最初の1か月で築いた人間関係の基盤と現場理解は、その後の施策の実効性を左右する土台となります。
次章では、この基盤を活用し、着任から90日以内に一定程度の結果を出した内容について一部を紹介します。

第4章:初期90日間の優先課題とアクション
課題1:ASEAN地域の調達課題の明確化
背景
赴任直後、統括法人社長から最初に与えられた直接指示は、ASEAN地域全体を対象とした鉄鋼・アルミ・樹脂の原材料調達マップ作成と調達課題の明確化でした。これは、自社の調達戦略において現地化・コスト低減を推進するための基礎資料となるもので、精度とスピードが同時に求められるミッションでした。
短期視点でのアクション
まず、業界団体の統計や公的データの収集を行い、商社や現地サプライヤーを訪問して生産拠点の所在地、生産量、生産品目などを把握しました。次に、自社の調達データと統合し、ASEAN域外からの輸入比率や現地調達比率を可視化。現調化できていない品目を特定し、価格変動リスクや技術的制約といった課題を洗い出しました。
長期視点でのアクション
短期で明らかになった課題に基づき、現地化比率向上のための調達先開拓や技術移管計画を立案。これらを年度計画に組み込み、ASEAN全域での安定調達と競争力強化につなげる仕組みづくりを進めました。
課題2:現地技術者の採用・育成と基盤整備
背景
新設された材料技術チームは、人材も設備もゼロからのスタートでした。本社からの支援は限られており、現地で自走できる体制を短期間で整える必要がありました。特に現地技術者の採用と育成は、長期的な部門の存続と成長の鍵を握っていました。
短期視点のアクション
赴任直後から採用活動を開始し、理系学部を持つ大学のリストアップ、採用基準の明確化、面接プロセスの設計を行いました。同時に、導入予定の評価設備の据付準備や作業要領書・標準類の整備を英語で実施し、属人化を防ぐ基盤を構築しました。
長期視点のアクション
採用した技術者に対しては、OJTと定期的な研修を組み合わせた育成プランを導入。さらに、本社の機能モデルを参考に、現地チームの役割定義や人員構成を明確化し、5年間の育成ロードマップを策定しました。これにより、現地で継続的に高度な技術課題に対応できる体制を整えました。
第5章:意思決定の裏側 — スピードと納得感の両立
赴任直後の90日間は、情報の多くが断片的で、しかも現場の状況は刻々と変化します。その中で意思決定を遅らせることは、チャンスの逸失や現地の信頼低下につながります。一方で、拙速すぎる判断は将来的な手戻りや混乱を招くため、スピードと納得感の両立が不可欠でした。
私は判断を下す際、次の3つの基準を必ず意識していました。
- 会社の中長期戦略と整合しているか:短期的なメリットよりも、全社方針との一貫性を優先。
- 現地で実行可能か:現地リソースや技術力を踏まえ、机上の空論にならない案を選ぶ。
- リスクが許容範囲か:失敗した場合の影響度と回復可能性を評価し、動くべきかを判断。
決定を現場に浸透させるためには説明力が不可欠です。同じ事実でも、本社向けには経営資源や戦略との関係を、現地向けには現場の利点や改善効果を強調するなど、「聞き手に合わせた言い方」を心がけました。
決定後は迷わず実行し、最初の1〜2か月で小さな成果を出すことで、関係者に「この方向性で進んで良い」という安心感を与えました。スピード感と納得感の両立は、初期信頼の確立に直結する重要なプロセスです。
第6章:まとめ 90日後に何を残すべきか
駐在初期の90日間は、後から振り返っても「最も密度の濃い期間」でした。この限られた時間の中で何を残せるかが、その後の駐在生活全体の成否を大きく左右します。
私が特に意識して残すべきと考えたのは、次の3つです。
- 信頼できる人間関係
現地のキーパーソンや本社関係者と、率直に意見を交わせる関係を築くこと。これは後の交渉や協力体制の土台になります。 - 短期成果(数字で示せる改善)
わずかでも数値や具体的事例で示せる成果を残すこと。早期の成果は、チームの士気を高め、周囲からの期待値を上げます。 - 中長期に向けた土台(人・仕組み・設備)
採用や教育の基盤、標準化された業務プロセス、必要な設備の整備など、90日で着手し形にしておくことが、その後の成長を加速させます。
駐在初期の時間は、二度と取り戻せない資産です。この期間に築いた基盤と信頼関係が、その後の成果を何倍にも広げる原動力になります。
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