1. はじめに:海外駐在がもたらす変化
海外駐在は、単なる勤務地の変更ではなく、異なる文化や価値観に触れることで、個人のキャリアや生き方に大きな影響を与え得る経験になると考えます。
私自身、かつて4年間にわたってタイで駐在生活を送りました。最初の1年と最後の1年は単身赴任、真ん中の2年間は家族帯同という形で勤務しました。
この期間は、仕事の面だけでなく、人生全体に深く影響を与える貴重な時間となりました。
この記事では、タイ駐在中に得た経験や気づきを整理し、これから海外勤務を予定されている方や検討されている方の参考になれば幸いです。
2. 現状を打破したいという思いと駐在の決断
タイ駐在の打診を受けた当時、私は本社で材料技術開発業務に従事していました。
与えられた役割をこなす日々の中で、裁量の乏しさや評価基準の不透明さに対する違和感を抱いていました。
また、自分の仕事が組織の中でどれほど価値を持っているのかが見えにくく、次第にモチベーションも低下していました。
実際のところ、海外駐在を「成長の機会」として前向きに捉えていたわけではありません。
むしろ、当時の環境や立場に閉塞感を感じており、何かを大きく変えたいという思いが先行していました。
自分の力を発揮できないまま日々を過ごすことに焦りを感じていた中で提示された赴任の辞令を、深く考え込むことなく「変化のきっかけ」として受け入れたというのが、正直なところです。
3. タイでの仕事:裁量のある環境での挑戦
タイ赴任直後の1年間は単身赴任で、担当する技術領域の設備導入や組織設計、人材育成といった役割も担っていました。
日本の本社では経験できなかった「現場で判断を下す立場」に立ち、多くの決定権と責任を持つこととなりました。
現地法人には既存の組織や制度が整っているわけではなく、すべてをゼロから構築していく必要がありました。
中でも特に大きな比重を占めたのが、スタッフの採用活動でした。
新設の技術部門に必要な人材をそろえるため、英語のレジュメに目を通し、英語で面接を行い、限られた情報の中から適性を判断する必要がありました。
「できるだけ早く人を採用したい」というニーズと、「安易に採ると後から苦労する」という採用リスクの間で、毎回頭を悩ませながら判断を重ねました。
さらに、採用しても数ヶ月で辞めてしまうこともありました。
面談を通じて退職理由を探りながら、どこに課題があったのかを振り返り、次の採用活動に反映していく──その繰り返しでした。
結果として、今も現地に残り活躍してくれているメンバーは、当時採用したスタッフのうちおよそ半数程度です。
だからこそ、今も関係が続いているスタッフには特別な思い入れがあります。
また、現地スタッフとの信頼関係の構築にも時間をかけました。
日本の職場以上に意識してコミュニケーションの頻度と質を高め、日々の会話に加え、タイ語で挨拶や雑談を交わしたり、ときには一緒にタイ語の歌を歌って場の空気を和らげたりすることもありました。
相手に寄り添う姿勢が重要であると、実地の中で学んでいきました。
さらに、彼らの成長意欲に応えられるよう、人材育成にも計画的に取り組みました。
現地スタッフのスキルレベルや将来の役割を見据えて、技術教育のロードマップを策定し、OJTと定期面談を組み合わせて支援を継続しました。
英語やタイ語での指導は、日本語のように細かくニュアンスを伝えることが難しいため、できるだけ伝えたいことを整理し、簡潔に要点を伝える工夫が必要でした。
このように、自らの裁量でチームを構築し、現地の人材と信頼関係を築きながら組織を形にしていく過程は、大変ではありましたが、それまでのキャリアでは得られなかったやりがいと責任感を感じさせてくれるものでした。
4. タイでの生活:単身赴任と家族帯同での違いと広がる視野
2年目からは家族をタイに呼び寄せ、帯同生活が始まりました。
家族との時間が持てる安心感や、現地のコミュニティへの参加機会が増えたことで、生活全体が豊かになりました。
子どもたちは、それぞれ日本人学校とインターナショナルスクール系の幼稚園に通い、学校や幼稚園だけでなく、英語や水泳などの習い事も経験しました。
外国人の先生と自然にタイ語や英語でコミュニケーションを取る姿に、言語や国籍にとらわれない感覚が育っていることを実感しました。
タイの文化に根ざした学校行事も多く、家族でタイの風習や祭事に参加する機会もあり、異文化への理解が自然と深まりました。
また、住んでいたマンションでもタイの文化を体験できるイベントが定期的に開催されており、子どもたちはもちろん、私自身にとっても異文化に触れる貴重な場となりました。
これらの経験は、今でも家族全員にとって心に残る思い出です。
海外生活の中で家族が得たこのような体験は、将来における選択肢や考え方の幅を確実に広げてくれたと感じています。
駐在期間中、私は仕事だけでなく、私生活においても「目標」を立てていました。
その一つが、東南アジアの10か国すべてを訪問することと、各国にある世界遺産を可能な限り見て回ることでした。
この目標は、家族との時間、そして自分自身の成長の一環として、計画的に実行してきたものです。
タイ国内では、アユタヤ遺跡、スコータイ遺跡、カオヤイ国立公園、バーンチエン遺跡という4つの世界遺産を訪問しました(一般公開されていない保護区は訪問できませんでした)。
タイ国外では、ベトナムのタンロン王城遺跡、ホー王朝の城塞、フエの建造物群、古都ホイアン、マレーシアのジョージタウン、カンボジアのアンコール、ラオスのルアン・パバンなどを家族または単身で訪れました。
そのほか、モルディブ、シンガポール、マレーシア(ジョホールバルにあるレゴランド)、インドネシア(バリ島)などにも家族旅行で出かけ、地域の多様性と魅力を、五感で体感することができました。
タイ国内でも、バンコク市内だけでなく、チェンマイのロイクラトーン祭り、ホアヒン、パタヤ、カンチャナブリーなど、さまざまな場所を巡りました。
そして、駐在4年目に再び単身赴任に戻った際には、最後の仕上げとして、まだ訪れていなかった東南アジア各国や世界遺産の訪問を積極的に計画しました。
仕事の合間を縫って計画的に時間を確保し、これまでの旅の総仕上げとして目標を達成していきました。
ただし単身赴任生活は自由な反面、生活リズムが崩れやすく、特に食生活の乱れが影響して体重が増えてしまいました。
家族がそばにいる時とは異なり、自分の生活を律することの難しさをあらためて実感する時期でもありました。
このように、家族帯同と単身赴任の両方を経験したことで、それぞれのライフスタイルのメリット・デメリットを実感し、どちらも自分と家族にとってかけがえのない時間であったと振り返っています。
5. 帰任後に感じたギャップと再認識した価値
4年間のタイ駐在を終え、日本本社へ帰任した際、私はいくつかのギャップに直面しましたが、その中でも特に強く感じたのは「裁量の違い」でした。
タイ駐在中は、技術部門の立ち上げという任務において、広い業務範囲と大きな裁量が与えられていました。自らの判断で人材採用、組織運営を進めることができ、日々の意思決定が直接成果に結びつく環境にありました。
また、現地法人は組織階層が比較的少なく、現地社長(日本本社の上級役員)との距離も非常に近かったため、経営に関する情報や方針にも自然とアクセスすることができました。
これにより、より高い視点と広い視野を持ちながら業務を遂行することが可能となり、自身の視座が確実に高まったと感じています。
一方、帰任後の日本本社では、その環境が一変しました。
帰任時には管理職に昇格していましたが、それでもなお日本本社の業務は階層が多く、意思決定までに複数の承認・調整プロセスを経る必要がありました。
駐在中に培ったスピード感や主体的な判断の習慣が、逆に組織文化とのズレとして感じられ、最初はもどかしさやストレスを覚えることもありました。
また、日本では役割が細分化されており、自身の担当領域が限定されがちです。
それに比べて、タイ駐在では「人がいないからやる」「必要だからやる」という感覚で、業務範囲が広く、自然と多様な経験が積み重なりました。
この違いが、仕事のやりがいや充実感の面でも大きな差を生んでいたと実感しました。
ただし、帰任後しばらく時間が経つと、タイで得た視点や経験が確実に活きていることにも気づき始めました。
たとえば、部下への指導やチーム運営において、組織マネジメントの姿勢そのものが変わったと感じています。
タイでは、スタッフ一人ひとりが異なる背景やスキルを持っており、「自分よりも優れた点がある個人」として尊重することの大切さを学びました。
現在もその姿勢を大切にしながら、定期的な面談などを通じて個々人の特徴や育成課題を共有し、本人の目線に立った育成に取り組んでいます。
また、経営に関する情報も、単に与えられるのを待つのではなく、自ら取りに行き、しっかりと理解するという習慣も、駐在時代に身につけたことの一つです。
現地では経営情報に触れる機会が多かったこともあり、その重要性を強く意識するようになりました。
帰任後も、今の会社の置かれた状況や経営方針、戦略を自分なりに把握しようとする姿勢は、日々の業務や判断において大きな支えとなっています。
駐在経験によって形成された「広い裁量」「スピード感」「経営視点」は、今の日本での業務においても、自分自身の行動原理や判断軸として機能しています。
こうした違和感と再発見の両方を経たことで、私は改めてタイ駐在の経験が自分の働き方の根幹を支えていることに気づきました。
6. 将来に向けた構想と駐在経験の活用
現在私は、タイでの駐在経験を踏まえ、将来的なキャリアの再設計に取り組んでいます。
かつての駐在経験は、単なる海外赴任ではなく、仕事と生活の両面で「自分らしく働ける環境とは何か」を深く見つめ直すきっかけとなりました。
異文化の中で大きな裁量を持ち、意思決定を重ねながら働けた経験は、私にとって理想的な職場環境を考える上での重要な指標となっています。
特にタイという国の気候、文化、食事、人々の人柄などは、私自身の価値観や生活スタイルと非常に相性が良く、心地よさを感じられる場所でした。
また、東南アジア各国を訪れ、現地の世界遺産や歴史、社会環境を肌で感じてきたことで、この地域への理解と関心が一層深まりました。
そうした体験を通じて、単なる「海外勤務」ではなく、「日本と東南アジアの2拠点で働き、暮らす」という新たなライフスタイルを目指すようになりました。
具体的には、現在の会社での業務を継続しながら、将来的には再びタイや東南アジアに関わる仕事をすることを視野に入れています。
また、会社員としてのキャリアに加えて、将来的に技術士資格を活かしたコンサルティング活動などを行う可能性も検討しています。
具体的な活動にはまだ着手していませんが、専門性と経験を活かしながら、現地企業や日系企業の技術支援、品質改善、人材育成などに貢献できる道がないか、模索を始めている段階です。
さらに、将来的にはマイクロ法人を設立し、独立した立場で仕事をしながら、複数の収入源を持って柔軟な働き方を実現することも構想しています。
タイ駐在中に築いた東南アジアへの理解や現地のネットワーク(たとえば、採用・育成を通じて関わった現地スタッフや、現地サプライヤとの実務を通じて得た関係など)を通じて得られる現地事情は、そうした新しい働き方を可能にする大きな財産になると確信しています。
タイ駐在の経験は、過去のものとして終わったのではなく、これからの自分の人生やキャリアを形づくる「軸」として、今なお生き続けています。
この軸を大切にしながら、これからも自分らしい働き方と生き方を追求していきたいと考えています。
7. おわりに:駐在経験を人生の礎に
タイ駐在の4年間は、単なる海外勤務ではなく、自身の価値観やキャリア観を深く見つめ直す契機となる時間でした。
裁量を持って働く環境、異文化の中で築いた人間関係、そして家族と共に過ごした海外での生活。
これらすべてが、自分にとってかけがえのない経験であり、今の自分の行動や判断の根底を支えています。
仕事面では、組織や業務を自らの手でつくりあげ、現地の人々と協力して目標を達成するプロセスの中で、リーダーシップと意思決定の本質を学びました。
また、生活面では、家族とともに海外で暮らすことで多様な価値観に触れ、子どもたちにも貴重な経験を提供することができたと感じています。
帰任後、日本での業務や生活に順応しながらも、駐在中に培った視野や判断力、行動力は今もなお日々の業務や将来の構想に生きています。
特に、タイを含む東南アジア地域の魅力を自らの肌で感じたことで、「再びあの地に関わりたい」という想いは年々強まっています。
今回の記事が、これから海外勤務を予定されている方や検討されている方、現在駐在中の方にとって、何らかの気づきやヒントとなれば幸いです。
そして、グローバルな環境で得た経験が、皆さまにとっても長期的なキャリア形成や人生の指針となることを願ってやみません。
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